思い出「ダウン症の息子と」

第1話:母の勘。やっぱりね

 

優樹は1997430日、埼玉県で生まれました。

この子で3人目。産院でおっぱいをあげる時に違和感に気付いた事を覚えています。

 

乳首を吸うのがとても下手ですぐ離してしまう・・・なぜ?

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入院から数日後、先生からお話がありました。

「ダウン症かもしれないので、検査ができる病院で遺伝子検査をおこなったほうがいいです」

内心、悲しいというより「やっぱり!」という気持ちが先でした。それと同時に「このことを家族にどう伝えたらよいのか、ショックを和らげるようにどう言おうか?」と色々考えました。ダウン症の詳しい情報は把握していなかったものの、ダウン症を知っていた私は、家族に取り乱されたくない気持ちばかりが先行し、自分の気持ちは後回しになっていたように思います。

 

後日、指定された病院に行き、検査を終え病院の食堂で遅い昼食を食べていた時、少し離れた席に450代位のダウン症の男女がとても楽しそうに談笑している光景が目に入りました。その様子を見た時、自分に今起きている現実を突きつけられたようで心が締め付けられました。「あんな風に楽しめるんだ」と思う気持ちと、説明のつかないもの悲しさが交錯して心が混乱していました。苦しくて、苦しくて、帰宅後トイレで大号泣。もはや、当時3週間後に判る検査結果はどうでもよく、この日、ダウン症児を育てることを決意したことは一生忘れることのない出来事となりました。

 

 

 

 

 

 

第2話:小学校の先生から「ダウン症」の授業をしたいと言われて

 

 

小学校時代はとても恵まれた環境にいました。基礎学級に籍をおいているものの、ほとんどの授業を普通学級で受け、補助の先生が普通学級でフォローしてくださるというのが地域の一般的な障がい児対応でした。ですから、普通学級の友達が優樹と仲良くしてくれて、優樹も楽しく過ごしていました。先生も生徒も障がい児の線引きをしない環境がありました。優樹にとってはこの上ない環境で、皆さんには感謝しかありません。

4年生の時、担任の先生から「ダウン症の授業」をしたいと言われました。理由を聞くと、少なからず優遇される優樹をみて一部の子から「優樹だけずるい」といった意見があがったので、ダウン症について知ってもらう授業をしたいとのことでした。「優樹が障がい児だという意識がなく普通のクラスメイトとして認識してくれた」結果、生じたトラブルでした。私は快諾し先生にお任せすることにしました。すると先生から「お母さんに一つ宿題をお願いしたいです。優樹くんに対して思う事を文章にしてください。授業でそれを読みます。」と言われました。小学生に解るようにと考えながら書いたことを覚えています。書いた文章がパソコンに残っていましたので、少し長文ですがお付き合いください。

 

 

「優樹は3人兄弟の末っ子です。

優樹はおなかの中では元気いっぱい、何の問題もなく元気に生まれてきました。ところが、おっぱいを上手に吸うことが出来ませんでした。ようやく何とか自分で吸うことができるようになりましたが、どことなく弱々しく眠ってばかりいました。お兄ちゃん達とは何かが違うとすぐに気がつきました。

 

お医者さんから、「この子はほかの子と比べて成長するのに2倍くらい時間がかかります。これから大変だけれど、どの子よりもやさしい子になるから・・・」と言われました。不思議と嫌ではありませんでした。

人として何が素晴らしいかというと勉強が出来ることでも、会社で偉くなることでもないと私はいつも思っていました。

だから、神様がその気持ちが本当かどうかを確認するために、優樹という大変な子供を授けたのだと思いました。

 

3ヶ月位になると普通は首がしっかりするのに、ぐったりしたまま。首をしっかり自分で起こせるようになったのは6か月を過ぎてからでした。やっぱりお医者さんの言ったとおり2倍かかると実感しました。言葉も遅く、歩けるようになったのは3歳を過ぎてからでした。家族全員で優樹の事を応援しました。みんなで話しかけたり、遊んでやったりお散歩に連れて行ったり・・・歩くための訓練やおけいこ事にもずいぶん通いました。成長が遅い優樹のことを煙たがったり恥ずかしいと思うことは全くありませんでした。家族の一員として普通に接してきました。

 

優樹が生れた時、7歳だったお兄ちゃんが小学5年になって、いじめや差別について作文を書く宿題がでました。お兄ちゃんは自分の弟を題材にして書きました。ある時、担任の先生が家に来られて、「その作文を市の道徳の教材に載せたいのですがいいですか?」と言われました。なぜわざわざ聞きに来られたのか不思議に思っていると、先生が「教材にするとみんなに優樹のことが知られる事になりますが、大丈夫ですか?」と言われました。作文を読んでからお返事することにしました。作文を読んだ時、お兄ちゃんの堂々とした文章にうれしくて涙が流れました。そこには優樹のこと、障害者についての正直な気持ちがしっかりと書かれていました。後日、先生に「どうぞ実名のまま載せてください」とお願いしました。

 

最近の優樹はやはりゆっくり成長しています。周りの人が見ても分かるとおり、まだまだ出来ない事もたくさんあります。いつまでも校庭から戻ってこなくてみんなに迷惑をかけたりもします。でもそれ以上にいいところがたくさんあります。とても心がきれいです。人を疑ったり、だましたりすることがありません。だからけんかや争いごとも嫌いです。家でお兄ちゃんとお姉ちゃんがけんかをすると優樹は悲しくなって泣き出してしまいます。

優樹に泣かれて言い過ぎた事を反省してけんかが終わります。優樹は我が家ではなくてはならない「平和の使者」のような存在です。また、家族に元気がない時は、いつもにこにこしてみんなを元気づけてくれます。優樹を見ているだけで不思議とみんな元気になります。これからも優樹は周りの人に支えられることがたくさんあると思います。

 

支えられるばかりではなく、世の中で何かの役に立つような人になってほしいと願っています。どんな人でも何かのために生まれてきたと思うからです。それは優樹だからではなくどの子にもそれぞれ生まれてきた意味があると思うのです。優樹にどんな事ができるのか、それはまだわかりません。もひとつだけ思うのは、みんなに幸せを運んできてくれたということ。

いろんな事があっても優樹が元気をくれてこれまで家族は頑張ってこられたと思います。優樹が頑張っている姿をみれば、家族のみんなも負けちゃいられない気分になります。優樹が一日でも居ないとみんな気が抜けたようになって寂しいし、いつしか家族の中で大きな存在になっています。いつか大人になって社会にでても、きれいな心をもちつづけていてほしいし、まわりの人たちに元気をあげるような大人になってくれればいいなと今は願っています。  

後藤 玲子」

 

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第3話:特別支援学校での成人式

 

 

高校時代は、特別支援学校高等部で3年間過ごしました。特別支援学校は2人の生徒に先生が1人くらいの割合で配置されていた記憶があります。地域に障がい児を分け隔てなく育てる環境が根付いていましたので、近くにあった特別支援学校の環境もすばらしく、先生方の対応も感謝することばかりでした。

ありがたい3年間を過ごし、卒業後、いよいよ成人の日を迎えたその日、優樹はインフルエンザにかかり成人式に行くことができませんでした。とても残念でしたが、特別支援学校の先生が卒業生のために成人式をしてくださることが決まっていたのが救いでした。当日は休日にもかかわらず、先生方がイベントや飲食を手配してくださり、すでに他校へ異動された先生方も参加してくださいました。温かい祝福と成人してくれた喜びで目頭が熱くなりました。

あっという間の20年。優樹がいてくれたことで私の世界は大きく広がりました。貴重な経験や学びを優樹から与えてもらうことになるとは、20年前は想像していませんでした。本当にありがとう。

 

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